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グリーン・トンネル 〜父、天野 尚とわたし〜 #06「拝啓、寅さん」

aquajournaljpアクア・ジャーナル編集部
少年の夢は、一冊の本から始まる。その少年は後に、その一冊が自分の人生を左右するほどの物になるとは、その時知る由もない。私が生まれる遥か昔。父がまだ少年であったころ。私はこの世に微塵も存在していないけれど、やがて私の父になっていくその少年を想像すると、なんだかその少年にきっと私もどこかで会ったことがある、そんな気がしてくる。
天野少年の両親は露天商であった。古本やプラモデル売る店を家で営んでいたのだが、それだけでは子供3人を養っていくにはとても大変で、祭りや縁日にも露店を出した。父と母が露店を出す日は少年も仕方なく手伝いのためにくっついて行く。同業者であるほかの露天商の人たちに可愛がられ、決して居心地の悪い場所ではない。けれど、同級生や友達に見られるのが恥ずかしくて、正直、あまり手伝いには行きたくなかった。それでも手伝いに出るのをやめなかったのは、どうしても欲しいものがあったから。母がリヤカーをひいて薪を買いに行くとあればそれにも付いて行き、手伝った。そんな息子に、母はある日、なけなしの300円をお小遣いに渡した。当時の300円は決して少ない額ではない。「ほら、これで買ってらっしゃい」。少年が大切にお小遣いを握りしめて買いに行ったのは、植物図鑑。ずっとずっと欲しかったもの。しかし残念ながら、本屋には欲しかった植物図鑑はなかった。代わりに少年の目に入ったものは「原色魚類図鑑」。胸を高鳴らせて、わくわくしながら、その図鑑を抱いて家路を走った。

「寅さんはテキ屋だけれど、お父さんの家も露天商だったんだ」と幼少期のエピソードを懐かしそうに話してくれる父は、大の寅さんファン。私がまだ幼いある日、父がものすごく沈んだ顔をして帰ってきた。「寅さんが死んでしまったよ」。まるで身内が亡くなってしまったかのような大きなショックを受けていた。暇さえあれば、よく家で「男はつらいよ」を見て笑っていた父。その姿を私も見ていたので、寅さんの訃報というよりも、父のショックを想像することが、幼い私にはなかなか難しいことであった。

父は、「男はつらいよ」全ての作品を最低3、4回は見ている。もともと、役者として渥美清が大好きであった。今でも、一番好きな役者を挙げるなら、やっぱり渥美清が一番にでる。高校生のころ、「男はつらいよ」第一作目を見た。それからというもの青春時代には、いつでも父の側には寅さんがいた。待ちに待った新作はもちろん、憂鬱な日でも、デートでも、なんとなくでも、寅さんを見続けた。露天商だった両親との思い出も重なり、寅さんの「流れ者生活」という境遇にどこか親近感のようなものも抱いていた。どうしようもない男のようで、繊細で優しく、情がある寅さん。話はいつも単純で、いつものメンバーが、いつも同じようなもめごとでごたごたし、結局なるようになっていく。だからこそ、見る人がどこかホッとし、癒される。

父は言う「寅さんが死ぬとは思わなかった」と。そこにいけば、いつも同じようにいてくれる人。いてくれるだけで、顔を見るだけでホッとし、救われる。父にとって寅さんは、そんな人であった。寅さんは、いつも、「こんなもんだよ」と格好悪い姿を見せて、完璧な男にはならない。だからこそ、皆に愛されていく。人情が織りなしていくその物語に、父はいつも郷愁を感じていた。人と人が良い関係性を築いていく、そのやりとりにはどんなときでもユーモアが散りばめられていて、そんなユーモアが父は大好きなのだ。確かに、父はどんなときでも「笑い」を大切にする。深刻だったり、大変なとき、真面目な話をしているときでも。いや、むしろそんなときこそ。それは、きっと寅さんが父に教えてくれた、実はとても大切なことのような気がする。

天野少年は家に帰り、早速「原色魚類図鑑」を開いた。開いた最初のページ。そこには、たくさんの水草と、その中を泳ぐ魚のイラストが水彩で描かれていた。「わあああ」と、その美しさに少年は目をキラキラさせて感動した。この世界を、もっと、もっと知りたい!少年はそう思い、毎日図鑑を眺めては魚の名前を全部覚えた。どんなに長くて難しい魚の名前だって、ソラで言える。少年は夢中になることの楽しさを早くも見つけてしまった。それからの彼は、ずっと夢中であり続け、走っていく。どんどんどんどん。そのうちに、いくつもの大変なときが待ち受ける。それでも彼は、「男はつらいよ」と言わずとも、ときには格好悪い姿になって、それでも笑いと情は忘れない。だからこそ人が集まり、彼をたくましくしていく。寅さんが側でそっと教えてくれていたこと、それは知らず知らずのうちに、夢中の少年を、たくましい天野尚という人にしていったのかもしれない。なんて、少し言い過ぎたかもしれません。どうですか? 寅さん。

 

2014年 月刊アクア・ジャーナル vol.222掲載「Green Tunnel」より

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