ADA

グリーン・トンネル 〜父、天野 尚とわたし〜 #04「16歳のヨーロッパ紀行 〜ドイツ編〜」

グリーン・トンネル 〜父、天野 尚とわたし〜 #04「16歳のヨーロッパ紀行 〜ドイツ編〜」

aquajournaljpアクア・ジャーナル編集部
初めてヨーロッパへ渡ったのは16歳の秋。初めての父との旅。初めてTakashi Amanoを知った旅。先に言ってしまうと、その後の私にとって、この旅はある意味かなり重要なものとなるのであった。ある日父が、仕事でドイツとイタリアへ行くから、もし興味があるなら一緒に来てもいい、と私に言った。私の答えは迷わず「行きたい!」16歳の私にとって、ヨーロッパはまだ想像の場所でしかすぎず、遠い遠い国であった。思春期のころは、やたらに欧米文化に感化されていて、ヨーロッパに対しては漠然とした憧れしか抱いていなかった。「お父さんはな、ヨーロッパへ行ったらキムタクより有名な日本人かもしれないぞ」なんて父が冗談まじりに言うものだから、「はいはい」と言ってあしらっていた。しかし実際、それは冗談でもなかったのだ。

12時間以上のフライトを経てドイツに降り立ったのはすっかり冷え込んだ夜。長時間フライトに疲れきっていたが、もちろん到着してすぐに代理店のドイツ人の方々に接待される。父との初めての旅であるのに加えて、それはただの旅行ではなく仕事である。娘として、父にも周りの人にも迷惑をかけないように粗相をしないようにと、到着してすぐに気構えた。空港からその足で早速レストランで食事。ウサギの肉料理を勧められたが、ひどく疲れているうえに緊張もあってか若干の腹痛を感じていた私は、とてもじゃないけれど食べられない。しかし、ここで断っていいものか考えていたら、隣りに座っていた父が「今はちょっと重いものは食べられないので軽いものでお願いします」と遠慮なくはっきりと言った。ほっとして私もスープだけ注文した。気を遣ってか、同行していた通訳の社員さんがウサギの肉を注文し、食べていると「お前、よく食べられるなあ」と言って父は笑った。やはり、NOとはっきり意思表示する日本人、それが父だ。

翌日からスケジュールはびっちりだったが、朝、合間をぬって父とホテルの周辺を散歩した。父は新しい土地に行くと朝散歩に出掛けるのが好きだ。そこは田舎で、周りの家々は古い石造り。庭も念入りに手入れされていて美しい。ドイツは景観に関して法律でいろいろと定め、かなり気を遣っている。環境問題の意識が高いのはもちろん、美しい景観を保とうとする国柄に父は感化されることが多いらしい。歩きながら話してくれた。

代理店の方が主催した講師Takashi Amanoを招いてのネイチャーアクアリウムレクチャー。多くのドイツ人たちが父の登場に喜び、熱心に耳を傾ける。実はそのとき、私は初めて知ったのだ。なぜ父が風景写真とネイチャーアクアリウムを同時進行させているかを。父なりの哲学を。私はドイツ人の熱心な聴衆に混じって、感動していた。Takashi Amanoという、日本を飛び出し、こんなにドイツ人を呼び込みプレゼンテーションする一人の日本人に対して。この人は確かに、キムタクより有名なのかもしれない。父は、いろんなドイツ人に私を「マイドーター(my daughter)」と言って紹介してくれたが、心の中で、「実は私は今初めて、父の仕事を知ったんです。いや、これをきっかけにもっと知ろうと思っているんです。多分、あなたよりTakashi Amanoを知らないと思います」と少し恥ずかしく思っていた。私は、そこで初めて父としてではない、天野尚と出逢い、彼に興味を持ったのだ。興味というのは、持とうと思って持てるものではない。いくら親子というものでも。きっかけとタイミングなのだ、おそらくすべてにおいて。ドイツという異国の地で、16歳というこの年に、それは私にやってきた。
そして、このドイツ旅でもうひとつ大きな収穫があった。それはマサコさんとの出逢い。マサコさんは現地通訳の日本人女性で、年齢は父より上。若いころにドイツへ渡り、結婚、子育てをし、もうドイツでの生活の方が遥かに長い。そのレクチャーが始まる前に打ち合わせで初めて彼女に会った。会った瞬間に、この人が好きだと思える人がいる。それが、私にとってマサコさんであった。「マサコさんの半生は小説になる」と父が言うほど、確かに彼女がドイツで永住することになる経緯や、それからのことはかなりドラマチックで、乗り越えて来た困難は多い。だからこそか、マサコさんはとても優しく、チャーミング。多感な時期に、こういう魅力的な歳のとり方をしている人に出逢えることは大きな意味を持つ。どんな道でもあなたが幸せならそれは大丈夫、とそんなふうに常に言ってくれているような人だ。ドイツを発つ日に、マサコさんが豚のぬいぐるみと封筒をそっと私に渡してくれた。「豚は幸運を呼ぶのよ」と言って。封筒にはお小遣いが入っていた。私はその豚のぬいぐるみをずっと大切にしている。今でもマサコさんとは親交がある。もし憧れる人を挙げるならその一人がマサコさんだ。鼻歌を歌いながら「大丈夫よ」と笑って言える人に私もなりたい。

ドイツでの滞在は4、5日であったが、毎日どんよりとした暗い曇り。もやのかかった森の道を車で走りながら、この国へまた来ることがあるのかな、と思った。しかし、運命は面白いもので10年後私はドイツで暮らすことになるのだ。16歳の私がドイツで出逢った大切なものたちは、そのとき私が思っていた以上に、私の中に深く刻まれたのだろう。あるいは、そういうものは時間とともに大きく膨れ上がり、新しい形に変貌していくのかもしれない。

 

2013年 月刊アクア・ジャーナル vol.220掲載「Green Tunnel」より

RELATED POSTS関連投稿

POPULAR POSTS注目の投稿