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グリーン・トンネル 〜父、天野 尚とわたし〜 #01「サルビアの花」

グリーン・トンネル 〜父、天野 尚とわたし〜 #01「サルビアの花」

aquajournaljpアクア・ジャーナル編集部

サルビアの花


サルビアの芽をとった
とっても小さかった

みんなの花がさいて、かれて、種がとれそうなとき
私の花はやっとさいた
うれしかったよ

#1 サルビアの花


小学校3年生の私が書いたこの詩を、今でもスラスラと言えるのは、この詩を父にとても褒められたという思い出があるからだ。

観察日記をつけるため、理科の時間に植えたサルビア。先生が持って来たプランターに育った沢山の小さな苗から、2つ3つ選んで自分の鉢に移植する。まだ芽のように小さなその苗を、それから数週間、観察し続けた。同じように植えた友達のサルビアが順調に育っていく横で、私のサルビアは小さなまま、頼りなく見えた。夏休みに入り、家に持ち帰ったサルビアを毎日観察し続ける。台所の窓の下に置いて、毎日母と「まだ咲かないねえ。」と、様子を見てはだんだん不安になってきた。もう夏も終わりかけていたし、友達の家で彼女たちの花を見せてもらうと、既に満開の絶頂期は過ぎ去っていた。待っても、待っても蕾みさえ見せてくれない私のサルビア。もう半ば諦めかけていた、季節が秋に差し掛かったある日、ぱっと咲いた。赤い、奇麗なサルビアの花。

国語の時間に、何気なくそのことを詩にして書いてみた。そして、家に帰って、何気なくその詩を父と母に見せてみた。すると父は、ものすごく感激したのだった。それは、思いもよらない反応だった。 後にも先にも、あれほど褒められたことはない。あまりにその詩を気に入った父は何かに寄稿する際に私の詩を載せて、その詩に関連させた文章を添えた。

 
数日後、読者からも、あの詩がとても気に入ったという感想をいただいたぞ! と父が嬉しそうに私に話してくれた。 正直、書いた当の本人が、あの詩のどこがそんなに良いのかよく分からなかった。叔父がうちに遊びに来た時も、父は嬉しそうに詩を見せたのだった。

「最後は『うれしかった』の方がよかったかもしれないなあ」と叔父が言うと、父は「『うれしかったよ』だからこそ、この詩はいいんですよ」と反論した。そうか、そういうものかもしれないな、とその時は思っただけだった。

授業で自分が書いた詩をひとつ選んで、みんなの前で読む時間があったので、私は父が絶賛する「サルビアの花」を選んで読むことにした。みんなの前で、あの詩を初めてゆっくりと声に出して読んだ。「うれしかったよ」と朗読したとき、思いもよらず、涙が出そうになったので、自分でもびっくりして私は必死にこらえた。

そうか、私、本当にあのサルビアが咲いて、嬉しかった。その時にやっと本当にわかった。「うれしい」ということは、こういうことか、と。ずっと見守り続けた植物が、どんなに遅くなっても花を咲かせて、応えてくれたこと。「うれしかったよ」と、私はあのサルビアに、父と母に、私自身に、どこかの誰かに、小さなその奇跡をそっと語りたかったのだ。

それは「うれしかったよ」であり、「うれしかった」ではない。私にとって、父はそういう人だ。あまり、複雑なことは言わないし、求めない。けれど、小さな、本当に小さなことにこだわる節がある。時に、とても小さなことが大きく物事を、全体を、がらりと変えてしまう。そういった事を人一倍気にしているからこそ、天野尚にしか撮れない写真や、生まれない水景があるのかもしれない。大人になってこのエピソードを思い出すと、そんなことを思う。

わたしにとって、この詩は「うれしかったよ」を知ったひとりの少女の物語であり、「うれしかったよ」に感動した父との思い出なのだ。

18年経ち、今、父のことを改めて言葉にして書こうとすると、やっぱり私はこの詩から始まりたいと思う。詩といって良いほど、大それたものではない。けれど、この詩から始まった部分が、きっと私の中に今でも大切に流れていて、それは父という一人の人が心から感動してくれたお陰なのである。

※サルビアの花の詩は、月刊『アクアライフ』1996年3月号の天野尚コラム・AQUARIUM GALLERYに掲載されました。

 

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