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グリーン・トンネル 〜父、天野 尚とわたし〜 #05「海までの道」

グリーン・トンネル 〜父、天野 尚とわたし〜 #05「海までの道」

aquajournaljpアクア・ジャーナル編集部
大好きな写真がある。その写真を見ただけですべてが蘇ってくる、そんな写真。空気は少し冷たく、けれど温かい春の日差し。若草の苦くて切ない香り。のどかな優しさだけが私たちをとりまいていて、すべてが許されているような無邪気な気分。オレンジ色のトレーナーを着てリュックサックを背負った4歳の私と、ほっぺたが真っ赤の7歳の兄、学校の体操着を着てヘアバンドをした10歳の姉がそこには写っている。
「海まで歩くぞ」父がある日決めた。何をもってそんなことを言い出したのかはわからない。けれど、父が決めたら私たちはやるしかない。いつもそうだ。川に沿って、あぜ道や土手を海に辿り着くまでただただひたすら歩くのだ。メンバーは、父、姉、兄、私の4人。私たちは遠足に行くかのようなうきうきした気分だった。おやつとおにぎりと水筒をリュックに詰め込んで。後にADAの本社が創設されることになる場所。その横を流れる大通川。そこから私たちの旅は始まる。母が幼い妹を抱いて橋のたもとで私たちを見送った。「気をつけてね」と笑顔で見送る母と母の腕の中でじっと私たちを見つめる妹。私は途端に行きたくなくなった。「私もお母さんと一緒にいたい」そう言いたくてたまらなかったが、我慢した。姉が私の手をひく。兄はいつものようにお調子に、木の枝を手に持ってぶらぶらさせながら私と姉の少し前を歩く。時々振り返って、なんとかライダーの真似ごっこみたいなことをしてくるけれど、私たちは女の子なのでちっともつれない。それでも兄は一人で何かと楽しんで歩いていた。

私は最初のうち、母と離れたことで心細かったが、姉と兄と歩いている状況にだんだんと慣れてきて、既に楽しくなっていた。そこは私たち3人が何をしてもいい、私たちだけの世界のように思えた。長く続く川、見渡す限りの田んぼ、遠くの山。こんなに広いのに、だあれも私たちを見ていない。私たちは思いっきり走った。道路の真ん中でお菓子を広げて食べた。変な顔をして笑い合った。橋を見つけるたびに休憩しようとした。私たち3人はいつもより、もっと、もっと自由に素直に、兄弟だった。お母さんがいなければ、お姉ちゃんがお母さんのように私と兄を見守る。兄は、私と姉を笑わそうとする。私は、そんな二人に甘えていい身分。けれど、その世界に父はいない。なぜって、私たちより前を行ってその姿をずっと写真に撮っていたから。だから、私はこの思い出にあまり父の記憶がない。あるのは昼食のとき。田んぼの中に入って行った父が新聞紙を広げ、「よし、ここで食べるぞ!」と言い出した。私と姉は大人しくそこに座っておにぎりを頬張り始めたが、兄だけは「こんなところで食べるなんて恥ずかしいよ!」と文句を言っていた。「誰が見ているんだよ!」と父が一言。そうして大人しく、そわそわしながら兄もおにぎりを食べ始めた。その様子がおかしくって、私と姉は笑っていた。最高に美味しいおにぎり。私は、田んぼのど真ん中で食べる昼食が本当に楽しかったのを覚えている。

お昼を食べ終わった後、だんだんと楽しさは薄れていった。長い道のりに、もう嫌になっていたのだ。もう歩きたくない。べそを掻きそうになっていた私の手をひくのはやっぱり姉。歩いても歩いても見えてこない海。まだまだ続く川。「ねえ、まだ?」と私は何度、父に聞いたことだろう。「もう少しだから頑張りなさい」そう父は何度も返事をしてくれた。途中の休憩で、私はあまりに疲れて眠ってしまったらしい。その後は父が私をおぶって歩いてくれた。気がついたときには港に着いていて、母と妹が待っていた。私たちは母と妹の元へかけて行った。最後の写真は皆で海をバックに万歳をしているものだ。私はさっぱり記憶にないのだけれど、途中で私は野花を摘んでいて、父に「それどうするんだ?」と聞かれると「お母さんにあげるの」と言ってずっと握っていたらしい。母が渡されたのはしおれた野花だった。父と母はそのエピソードを今も大切にしてくれている。

ある1日の出来事。それは海まで歩く小さな兄弟の長い長い旅。旅をする私たちをモデルに数えきれないほどの写真を撮る父。待っている母。細く長く、果てしないような川がだんだんと広い川となり、海になる。何のためでもない。ただ海まで歩く。そこで生まれた世界は今も、これからもずっとずっと1番大切な世界だ。もうどこにもない、けれど永遠に残る美しいものを人は誰かとつくっていける。私もいつか親になったら、そんなものを大切に自分の子どもと紡いでいきたいと思う。父が撮った、私たち3人があぜ道で笑っている写真。そこには父の、私たち子どもに対するすべてが含まれ、映し出されている。

 

2014年 月刊アクア・ジャーナル vol.221掲載「Green Tunnel」より

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