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Amano考 -ガラスの中の大自然- 第4回「短靴と水草」

aquajournaljpアクア・ジャーナル編集部
Amano考では、1992年に出版された天野尚 水草レイアウト作品集『ガラスの中の大自然』で天野が綴ったエッセイを再掲載しています。ネイチャーアクアリウム作品のバックボーンとなる天野尚ならではの自然観や経験に触れることができます。
昭和30年代、鎧潟でハスの実をとる子供たち。 撮影:石山与五栄門

「短靴と水草」


昭和30年代は冷凍庫がなかったため、平野部や山間部に住む人は新鮮な海の幸を口にすることができなかった。子供たちは親の手伝いも兼ねて、よくコイやフナを捕りにいったものだ。特に私の故郷には大きな潟があり、魚はもとよりヒシやハスなどの水生植物の実もふんだんにあった。子供たちが捕ってくるそれらの川の幸は、平野部の人々にとっては重要なタンパク源であった。漁獲方法は押網というもので、半円形の網に竹棒を付けて川を端からすくっていく原始的な漁法である。時には大きな土管の両端に堤防を作り、中の水をバケツで汲み出し、水がなくなった後、土管に入り手づかみで捕る危険この上ない漁法であった。

子供たちの取り分はいつも平等で、ジャンケンで勝った順に大きな獲物を取ったが、婚姻色の出た美しいタナゴやハゼが捕まると、自分の取り分は全て仲間達に分け与え、自分は生きたそれらの小魚を取ることがよくあった。特別に綺麗な魚が捕まると私にとっては悲劇だった。当時の子供がみな履いてた短靴というオールゴム製の靴を脱ぎ、中に水を入れ持ち帰るのだが、片道2キロ程の石ころだらけの悪路は足の裏に血豆を作った。足を血まみれにして持ち帰るのだが、熱気と酸欠で生きて到着する魚はなかった。手ぶらで帰った私は祖母によく叱られたものだ。

現在、水草のレイアウトに使っているツーテンプルやハイグロなどに似た水草は潟にたくさんあった。ササバノヒロモ、ミズオオバコ、マツモ、ミズワラビなどが茂った水中の景観は子供心に美しいと思った。そしてこれらの水草を手で折り短靴に入れ持ち帰るようになってから、不思議と魚が死ななくなった。今、私が作る水草レイアウトの数々は、こうした幼い記憶から生まれるものが多い。

 

1992年出版 天野 尚 水草レイアウト作品集『ガラスの中の大自然』 (マリン企画)より

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